三 人の女 - Hernán Domínguez Nimo



 Texto en español: "Tres mujeres" 

Traducido al japonés por Nakazima Yasutoshi

  怠け者アンドレス

 最初の女は北方からタレゴにやってきた。
 北門の守衛である怠け者のアンドレスが、そこにあるたった一つの椅子に座っていると、砂埃の舞う道を女が歩いてくるのが見えた。地平線へまっすぐ続く道だが、くぼ地が多いので、ただの蜃気楼だったかと思うくらい、歩いている人がときどき完全に見えなくなってしまうことがある。いくつもの丘を登り、近くなってくるたびに顔立ちがはっきりしてきて、だんだん現実的になると同時に、現実味を失ってくる。
 彼女の炭のように黒い髪は、温和な相貌とは対照的に、怒り狂った鞭のように風になびいてうなっていた。彼女の身を包む桃の実の色をしたチュニカは、身体に触れるのを恐れているかのように表面を漂っている。その下には、彼女の浅黒く、滑らかな未成年のような若々しい肌がのぞいている。歴史も、傷も、痛みもない肌だ。しかし、彼女の目は髪よりも黒く、その逆を物語っているようだった。
 怠け者のアンドレスは、街までの最後の丘から出てきた彼女を見ると、たちまち惚れてしまった。ここらへんでは最近、めったに女の姿を目にしないのは確かだ。女のよそ者が歓迎されないのは、ある預言があるからだ。――実際は、その預言がもとで出された勅令によるのだが、街の女の住人は家に帰れなくな

るのを恐れて、あえて出かけようとはしない。でも、アンドレスはそんなことは考えもしなかった。別の部屋で眠っている同僚を起こそうなんてことは、頭をよぎりもしなかった。ただ、ちいさな木造の守衛所の扉の前に立ち、女の髪に、チュニカに、そしてサンダルに、肌に、その目に見とれていた。
 女は門のところまで着き、そこで止まり、彼のことを見ていた。
「止まれ」アンドレスは狼狽して、ライフルを両手で構えながら言った。
「もう止まってるんだけど、守衛さん」女は、おもしろがっている。
「ああ、わかってる」小卓の上に広げた入門簿に視線を落としながら、ペンをついた。「名前は?」
「ラケル」
「ラケル……」アンドレスは書こうとしたが、そこで止まった。ペンはいらいらして、震えている。「ラケル、なんだ」
「ラケル、それだけ」
「名前だけじゃ記録できない。埃まみれのラケルか、徒歩人ラケルか、名無しのラケルか。まだ言わなくちゃならんか」
「好きなのを選んでよ。どれでも、わたしにぴったり。」
「じゃあ、徒歩人ラケルと」怠け者のアンドレスは、そう帳簿に書き込んだ。「それが一番穏当だ。偏った見方だといわれなけりゃ、美人のラケルと書きたいところだ」
 アンドレスは笑いかけた。しかし、徒歩人のラケルはそんな彼をただじっと見ているだけだった。アンドレスの笑顔は消えた。
「で、どこへ行くんですか?」
「街へ。タレゴ。この道は他のどこかへ通じてるの?」
「タレゴへしか行けませんよ、奥様。ばかな質問だとはわかってるんですがね、この道を来る人には必ず聞かにゃならん、ふたつの質問のうちのひとつなのですわ。名前と、どこへ行くか。三十年前からそうなんです。おれっちもばかな質問だと思ってるんですがね、聞かないでおいてタレゴの誰かにわかっちまうと、そいつが最初に考えるのは、おれっちは仕事もできない怠け者だってことになる。そうは思われたくないんでね」
「じゃあ、お仕事はできたから、いいんだね、守衛さん。あなたは門を守って、わたしは道を行く」
「まだ、あとひとつ」
「また質問? 質問はふたつだけだと思ったけど」
「質問じゃないんでさ。だけど、質問よりもっと大事かな」
「なによ。門の守衛さんにとって、質問より大事な事ってあるわけ?」
 怠け者のアンドレスは小屋に入り、閉まったドアの前を通ったときはじめて相棒を起こそうかと思った。命令は明白だった。非常の際は、全員が警備に当たること。しかし、三十年も経てばどんな規則もおろそかになる。しかもあの美しい女は、アンドレスには非常事態とは考えられなかった。
 ということで、そのまま歩いていき、キャビネットを開けて、そこからワイヤーでできた縁なし帽を取り出した。金属製の蜘蛛のようで、脚の先端には吸盤がついている。蜘蛛の胴体からは太いケーブルが垂れ下がり、円筒形の箱につながっている。
「これを頭にかぶせます」とアンドレスが言った。
 ラケルは不安そうにそれを見た。
「なにそれ……。ちょっと怖いな」
「すみません。でも、これをかぶってもらわないと、お通しできないんで」
「いいわ、わかった。でも最初にあなたがかぶってよ」
 怠け者のアンドレスはしばらく彼女を見ていたが、帽子を取り上げて自分の頭にかぶせた。寒気が首筋を走った。
 ラケルの笑い声が彼をびくっとさせた。
「ハハハ、わかった、もういい!」
 ラケルは近づいていって、そこにあったただひとつの椅子に座った。
 怠け者のアンドレスは女の後ろに回り、ライフルをテーブルに立てかけ、その存在を忘れてしまうことを望んだ。そうっと、この金属製の蜘蛛が、本当にその脚で女を、あるいは、少なくとも彼女の美しい黒髪を傷つけてしまうのを恐れるかのように、帽子をかぶせた。円筒形の箱にはひとつのボタンと、ふたつのライトがあった。いままで一度もスイッチを入れたことがないときに戻ったように、うやうやしく、多少の恐れを持ってボタンを押した。赤と緑、両方のライトが数秒間瞬いた。そして、緑が完全に点灯した。
 怠け者のアンドレスは微笑んで、やっと息をついた。
「結構です。徒歩人ラケルさん」帽子を取ると、ライトが消えた。「もうタレゴまで行ってもいいです」
「ありがとう、守衛さん。あなたの質問に答えるよりずっと楽だった」
 そして、徒歩人ラケルはタレゴの街の北門を通過した。
 怠け者のラケルは彼女が去っていくのを見て溜息をついた。帽子をしまって、たったひとつの椅子にまた腰をかける。ちょうど自分が守衛についているときに預言が実現しなくてよかったと、安堵の息をついた。赤いライトがついたらどうしたらいいのかわからない。女の背中に銃を向けて打つ自分が想像できなかった。

 病みあがりのアナ

寒い
   暑い
 すべてが一時に感じられる。身体を持つただひとつの理由は、苦しみと痛みを感じるためじゃないかという感覚。
 アナは目覚めるが、いつなのかはわからない。二時間ほどたって、やっと目が覚めたことが実感できた。いまは、人声や物音のほとんどは頭の外から聞こえてくる。そして、目のなかできらめいているのは、なにかを透き通ってきた太陽の光だ。
 人の声。大勢の人の声だ。どれも誰の声かはわからない。かなりの鼻声で、無理をして口や目を開けているというほどではない。かすれて、咳をするたびに途切れるということでもない。ここには、もっと大勢の人の声がしている。しばらくして、これは売り子の声ではないかと思い出した。値切りや侮辱、市場での独特の繰言だ。
 市場だって? 病床から起きたこともないのに、なぜ市場のことなんか知っているのだろう。しわがれ声の年寄りが話してくれたのだろうか。彼女はいつもベッドのすぐそばに座って、本を読んでくれた。また眠ってしまわないように、また影の国へ行ってしまわないように。
 しかし、アナはどうしても眠ってしまった。身体は彼女の意識を留め置くことを拒否し、荒れた海を泳ぐイルカのように、あまり水面に頭を出さないで夢の中に潜っていく。そして、ジャンプをしたときに、彼女の心は物語の断片を回収していく。
 そうだ。おそらく、年寄りが市場の話を読んでくれていたのだろう。もし、本当に市場にいるとしたら、もう街へ着いたということなのだ。
 街。いつだったか、妄想の中で街に行こうと決心したことを思い出した。どこかは覚えていない。何のためにかもわからない。ただ、そのときはとても大事なことだったことだけは覚えている。
 本当に大事なことだったのか。それとも、熱にうなされたための妄想の欠片か、彼女の身体を支配する耐え難い影の仕業か。
 それを知ることは叶わない。そんなに遠くの記憶を呼び寄せることはできなかった。ぽっと断片的に浮かび上がってくることはあるのだが、引き留めておきたい記憶は、水のように指の間をすり抜けてしまう。
 鉄製の寝台に縛り付けられていたのは覚えている。そして、湯気の立つ蛇口と、泡立つスープ。苦痛から逃れようと身体をよじっている間に聞こえた、男の鼻声と、とてつもなくまずい飲み薬。
 しかし、そういう全ての記憶は蒸気のようなかすみに包まれて、確かな筋道が失われていた。たった一つ確かだったのは、彼女はその場所にいたということ。そしてそのとき、自分の名前や市場、街のことなどを思い出せるまでには熱の影が後退したということ。
 身動きしようとして、それぐらいはできることがわかった。身動きすればするほど、太陽の輝きが感じられ、草や馬の糞の臭いが鼻孔に押し寄せてきた。彼女は干草の山の中に埋められていた。手で押しやって、頭が自由に動くようにした。彼女のブロンドの髪と淡いミルクのような肌が、乾いた牧草の細片で見えなくなっている。
 彼女は荷物を積んだ木製の古い荷車の後部にいた。こうして、街の中に入れたのだ。街の中に入るのは簡単なことではないことを思い出したが、その記憶は思い出そうとしなくてもやってきた。そのことは思い出せたが、街の名前は思い出せない。荷車の主か誰かが、が荷物を二、三個解いて牧草の下に隠してくれたのだ。
 それで、この熱の説明がつく、ふいに楽しい気分になってそう思った。笑いの衝動に駆られたが、なぜかは思い出せなかった。
 でも、こんなことは思い出さなければならないことじゃないのよ、ほんとにもう、息をするのと同じような本能みたいなものなのに、なぜ思い出せないの?
 影は絶望のにおいをさせながら、この干草の下に隠れることができなかったら、もし、だれかに見つかったらどうなってしまうだろうかと自問している間に、ゆっくりと彼女の前に舞い降り、彼女は気を失った。

 放蕩者ラウラ

 ああ、階下から聞こえてくる笑い声は、世界で一番の目覚ましね。男の腕よりもいい。だって、隣で目覚める男は大抵、疲れた顔で、変なにおいがして機嫌が悪いし。でも、酒場のどよめくような笑い声は、新しい恋人、試してみたい身体の兆しでしょ。そして、試すんだったら、知らない人の方がいいじゃない!
 ただ、問題はこの頭にガンガンくる、ろくでもない二日酔いね。
 そうすれば頭がバラバラに爆発するのをふせげるかのように、しっかりと頭をかかえながら、ラウラは古ぼけたベッドの向こう側のランプテーブルの上に、灰皿があるのに気がついた。真ん中に押しつぶした吸い殻が三本あった。だれか他に、ここで寝ていたんだ。
 もちろん、そんなこと別に珍しいことじゃないけど、一緒に夜を過ごした人が、あたしの寝ている横でタバコをふかしていたのは気に入らない。いまだにそれが誰だったか思い出せないけど、タバコに火をつけようとしただけで、あたしは文句を言ったはずだ。
 灰皿を壁に投げつけると、粉々に砕け散った。
「あんたを捕まえたら、同じ目にあわせてやるよ、くそったれめ」下あごを突き出して、威張った声で叫んでは見たが、だれに向かって言っているのかわからなかった。
 ゆっくりと服を身につけたが、盗まれた物があるか確かめもしなかった。もともとたくさんは持ってはいないし。だれも信じてはくれないけど、お金のためにしたことはなかった。セックスは喜び以上のものを与えてくれる。しているときは、ほかのことはすべて忘れてしまう。この世界がクソだということを忘れさせてくれる、ひとつの方法なのだ。もちろん、アルコールはもうひとつの方法。一緒に来れば、そりゃもう至福の世界よ。
 時々、プレゼントをもらっていたけれど、受け取らないことはなかった。時々、何をどれだけ欲しいのかはっきりと愛人達に言っていたから。何? だれにも贈り物をねだったりはしなかったわよ、一緒に寝るのをだれにも無理強いされなかったのと同じようにね。そんなに欲張りじゃないもの。たくさんはいらない。気持ちよく暮らしていくのに、必要な分だけあればいいの。そんなふうに、この二年ぐらいは過ごしてきた。
 それとも、三年だったかしら。過ぎ去ったことはよく覚えていられないのよね。あの人達の顔、匂い、そこそこの絶頂感。そういうものが、あたしの頭に蓄えているぎりぎりの記憶の荷物。必要最小限のもの。
 それでも、最近このタレゴの街に来てからは、自分の記憶ではないような、よくわからない光景が、だれも呼び起こそうとしていないのに思い出されてくる。あのいまいましい頭痛をともなって……。
 下の階からの哄笑がふたたび彼女を呼んでいる。ラウラは着替えを終わり、乱れた栗色の巻き髪はほとんど整えられなかったが、部屋を出る時には、悩みはほとんど覚えていなかった。
 十分後には一杯おごってくれた男のとなりに座っていた。彼は商人で、タバコは吸わないと誓ってくれた。セックスのかわりに金をもらわないことのいいところは、誰とするかを選べることだ。
「もうここで働いて長いのか?」ビアジョッキが来ると、すぐに男はそう聞いてきた。
「働く? あたしがここでどんな仕事をしてると思ったのよ」しかめ面をして酒場を見渡した。「もしかして、あたしはあんな娼婦の一人に見えるの?」
「いや、違う! すまん。ただ前に見たことがない顔だと思ってね」
「それは、前にはここにいなかったからよ。あたしってそんなに目立たない女じゃないと思ってるんだけど、そうなの?」ラウラは巻き髪をかきあげながら、ジョッキを上げ、この出会いを祝って男と乾杯をする。片手にジョッキ、もう一方の手は男の脚に置いているということだけで、彼女はいい気分だった。
「いや、もちろん、違う!」男はぐいとひと口飲んで、もう一方の手でひげをぬぐった。
「じゃあ、ここへ来たのはどのくらい前なんだ?」
 ラウラはジョッキを唇に当てながら、少し考えた。
「それがねえ、よくわからないのよ……。街を移るというのは、あたしの人生にとっては覚えておくにふさわしいことじゃないのかしら」
「まあまあ、しかし、女だったら、門番の扱いは不愉快だっただろ。〈三人の女の預言〉のせいなんだよ。やつらは入ってくる女達にはすごく厳しいからな。これを利用して、外国の女にちょっかいを出す門番もいるらしいぜ」
 男はラウラのスカートの下に手を入れたが、彼女はその手をつねって引っ込めさせた。
「〈三人の女の預言〉? 何なの、それ。おとぎ話みたいね」
「おい、それを知らないってことがあるか! ま、おとぎ話ではあるがな。このへんの東海岸じゃ、何度も繰り返し語られてる話だぞ! 三人の女がタレゴに来て、そのうちの一人が〈良心の玉座〉を占めるだろうっていうあれだよ」
「〈良心の玉座〉?」
「おいおい、おれをからかってるのか? それとも、食器戸棚にでも閉じ込められてたか?」
「そういうことって……」ラウラは偏頭痛に襲われ、頭を抱えた。「聞いたことあるような気がするんだけど……このごろ、記憶が危なっかしくて……」
「〈全き良心の玉座〉はタレゴの審議官室にある。そこから大陸全ての住民の精神に語りかけることができる。だが、使うことができるのは本物の審議官様だけなんだ。グラコはもう十二年も前から試してるんだが、一向にできない」ここで男はジョッキをひと息で飲み干す。「騎兵隊でどんな布告も出せるし、もちろん、望むとおりの反応も得られるんだが」
 男は闇の記憶の影に覆われたかのように、急に口を閉ざした。
「おれはいつも、こんなに飲まないんだが」
「あたしは飲むのが好き。人が好きなことをして、何が悪いの?」
「そうかもしれん……そう思いたいのはやまやまなんだが」と男は空のジョッキを遠ざけた。「そうなると、商人はやっちゃあおれん。商人にはなりたくなかったんだ。おれは牧場を持っていてね、そりゃあいい牧草ができたんだ。そこをグラコの友人に目をつけられてね、やつらは……」
 ラウラはなんと言っていいかわからなかった。
「でも、警察は何もしなかったの?」
「グラコが警察なのさ。おまけに領袖さまときた。やつと、やつの友人が望むことが法律なんだ。わかるか?」男は空のジョッキを持ち上げて、給仕女に合図をした。
「審議官様がいたころは、こんなじゃなかった。自分の土地を持てていたというだけじゃない。心に響くあの方のお声は、どんな呼びかけにも、どんな必要性にも、おれたちを護ってくださるバルサムの香油のようだった」給仕女がジョッキがふたつ持ってくると、男はふたたびテーブルに戻すまでに、ごくごくと長く喉を鳴らした。
「グラコがあの方を殺したんだ。毒を盛ったんだとよ。でも、だれも何もしなかった。恐ろしくて。グラコが警察だったからな。だから、みんなはあの預言にすがってるんだ」
「でも、街に来たどの女の人が審議官だってわかるの? 街にたどり着いた女はだれでも、その玉座に座れるの? たとえば、あたしは女で、最近来たばかりだから……」ラウラは、男の悲しみをそらせようとして、微笑んだ。
「あたしはその審議官様になれると思う?」
「さあな……」男は気重な笑いを唇にぶら下げただけだった。
「審議官様は特別なんだ。精神からして違うというよな。どんなもんかはわからんが、本物だけが玉座を使ってみんなと接触できるんだ。だから、審議官様は死ぬ前に適任者を探して決めて置くらしい。グラコは、継承者を発表する時期が来る前に殺してしまった。だが、預言では、すでに誰にするかもう決めていて、断末魔のなかでメッセージを送ったといわれている」
 ラウラは頷いて微笑んだが、頭の中では痛みがずんずんと大きくなっていた。この男がこんなふうにしているのを見るのは辛かった。彼はいい男なのに。彼女は審議官ではなかったが、この世のすべての苦痛を消し去ることのできるバルサムを知っていた。
 彼女はジョッキと男の手をつかんで、階段の上へ、彼を連れ立っていった。

 大臣ギド

 ドアがバタンと開いて、壁に当たって跳ね返り、また閉まりそうになった。グラコは平手でドアを押さえながら部屋に入ってきた。荒々しい表情のかなたに、どこか平静さが見えたが、ギドには審議官が怒っていることは明白だった。
「確かなのか? ここにいるのは? 三人の女がタレゴにいて、だれもわしに知らせなかったのか?」
 ギドが仕事をしていた製図台の前に来て立ち止まると、いらいらしながら体重を片方の足からもう片方に何度も移し替えている。ギドはその苛立ちがいつか尽きるときが来て、その時もし手に剣でも持っていたら、その剣を振るわれることになるだろうかと考えた。
 彼にはそんな想像をする理由などなかった。グラコは彼に対して暴力を振るうような兆しも見せたことはない。しかし、それが単なる怒りの抑制だったとしても、ギドは権力によって手に入れたものすべてに疑いを持ってかかっていた。河はいつの日か必ず堤防を壊すのである。
「女が三人、タレゴに入ってはいます、閣下。ですが、それがあの三人の女であると示すものは何もありません」
「その三人が一緒に到着したという以外は、だな、ギド。さあ、そんなことがあったのは、どのくらい前だったのだ。二人の女の到着が二日とあけずに一致したというのは、どのくらい前だったのだ」
「ごもっともでございます、閣下。布告がもたらした恐怖は覿面でございます。些細な単なる偶然も逃れることはできません」ギドはここで腰掛から立ち上がり、初めてグラコの方を見た。「ですが、その可能性が正しいとするならば、正当たる布告を知らなかったための偶然と申せましょう。この三人の女は異邦人であり、なおかつ非常に遠方ゆえ、知らなかったのでしょう。誰も彼女らを知らず、彼女らも誰の知り合いでもございません。そして、最も肝心なのは、閣下、神経マップ警報にかからなかったこと。それゆえに、ご報告いたさなかったのでごいざいます」
「わしは偶然なんぞ信じぬぞ、ギド。だから、だれでも三人の女が来たら知らせるように伝えたはずだ」その声音には切迫したものがあった。「そいつらはどこから来たんだ?」
「一人は北の門から入りました。他の二人は市場の区域で見かけられています。ですから、西の門から入ったものと思われます」
「思われます?」グラコはこぶしを握りしめ、首の血管が膨らんだ。「西の門衛は報告しなかったのか」
「西の門に就いていた三人の門衛は、すでに職を解かれ、交代させてあります。もっと……目が覚めているものと」
「目が覚めているだと? そいつらは一ヶ月も牢で過ごさせてやれ、ギド! そして、眠りそうになったら、叩き起こしてやるんだ! バケツ一杯の冷たい水でも、真っ赤に焼けた鉄の棒でも、必要な事ことは何でもやれ、わかったな!」
「閣下、あの布告は、いうなれば……受けがよろしくございません。すでにほぼ三十年が過ぎ、タレゴに入ろうとする数少ない女をわずらわせ、寄せ付けないためにしかなっていないと、兵士達が考えているのも当然でございましょう。軍服に引き寄せられてくる、ある種の女達にございます。閣下もご存知かとは存じますが……」
「女たちだと? そうなのか? 兵士達は女が欲しいのか? あのような一人の女ではないというのか? 預言が実現すればいいと思っているのか?」
「いいえ、閣下」ギドは話をそらそうとする。「三人の女に関しましては……」
《三人の女、来たりて、ひとりが留まるだろう》聞き覚えのある声がした。
 ギドは頭をまわして、横を見た。兄弟は眠っているものと思ったが、彼の肩の上にある頭の目は開いていて、じっと彼を見ている。彼は初めて奇異に感じたが、エンソは、彼ほどには瞬きの必要性を感じていないようだった。
「グラコ閣下と私は預言を十二分に知っているぞ、エンソ。ここで繰り返してもらうには及ばない」
「ああ、そうだった。よく知っている、たしかにね。よく知っている。……《汝自身を理解せよ……されば宇宙と神々を理解するであろう》」エンソは目と口を閉じ、動かなくなった。
 ギドは本当に眠ったのか確かめるように、しばらくじっと見つめていた。彼自身が目覚めているときに、こんなに長い時間エンソが起きているのは珍しいことだった。彼を活動させておくために送られる血液は、そんなに少なくはなかったはずなのだ。そして、エンソが聞いていたとわかったことで、居心地が悪くなったことを認めざるを得なかった。
 ばからしい。もう慣れていてもいい頃だ。これまで生きてきた時間は、あらゆることに慣れるのに充分すぎる時間だったはずだ。
 もちろん、グラコほど不快ではなかった。だが、その不快な感情はすでにぼやけてしまい、ここから出たいという欲求と入れ替わっていた。審議官はエンソが話したり、動いているときにだけ、彼の双頭状態を思い出しているようだ。
「その三人の女については……、見つけて、ここにつれて来い」グラコはきびすを返すと、部屋のドアを閉めずに出て行った。
 ギドは彼が出て行くのを見送ってから、眠っている兄弟を見た。預言を知っている、とか言ったのは、どういう意味だったのか。あきらかに皮肉だ。しかし、何を言いたかったのだろうか。そのことについては、後で考えなくてはならないだろう。とにかく、今は女達を捕らえなければならない。

 徒歩人ラケル

 馬車はいまにもバラバラになりそうなほど揺れていた。タレゴの道は最高というわけじゃない。
 喉が痛くなり始めていたが、ラケルは小さな窓にはまった鉄の檻を掴みながら、またもや叫びだした。
「放してください、お願い! なにかの間違いだって言ってるでしょう! 私は絶対、何もしていないんですから!」
「女に生まれただろう!」御者はそういって笑う。その笑い声が、道に開いている穴より馬車を揺らす。
「この手でてめえを捕まえられたら、笑う気がなくなるまで捻り倒してやるよ、くそったれめ!」
 笑い声が止まった。だが、それは一瞬のことで、そのあと、笑い声は倍加した。
「たいしたお口のご婦人だ!」
 ラケルは窓から離れ、妙な感覚を覚えて、床にくずおれた。おびえていると同時に、楽しんでもいた。あんな言葉、どこからひっぱり出してきたんだろう。いつどこでそんな言葉を聞いたのか、見当もつかなかった。
 ともかく、降ろしてくれと頼んでも無駄なことはわかったわけだ。北の門をあとにして歩いていると、みんながわたしを見て、なにやら聞いてきたけど、そのうちに、きれぎれにどういうことかわかり始めてきて、その話を始めから全部聞いてみようという気になった。
 つまり、この国の警察署長が、単なる警察署長よりもっと偉くなりたくて、直接、政治には携わってはいなかったものの、すべての住民と意思が通じる精神機器が使える最高権力者である女性審議官を毒殺した。その女性審議官が死ぬと、グラコとかいう警察署長は、警察権力を使って街を支配した。そして、彼に反対する者たちは、卑怯にも自分達でこの状況の解決法を見つけようと、ばかげた預言をつくりだした。すなわち、三人の女がこの街にやってきて我々を解放してくれる。そして、ラケルがその一人なのではないかという。
 そして、現実にすべてがここに帰着した。他に二人の女が着いたときに居合わせるとは、まったく運が悪い。彼女達のことは知らないと証明するしかない。そして、解放されたらタレゴへ来た目的を果たすんだ。
 でも、……何のためにわたしはここにいるんだろう。
 こんなに単純で、明らかな、ばかばかしい疑問が出てくるのは、彼女にとっては思いもかけないことだった。しかし、この疑問に答えようとしても、答えが見つからないことに気がついた。なにか理由が、それも重要な理由があることはわかっているが、今の時点では記憶がすり抜けている。舌の先まで言葉か名前が来てるのに出てこないという感覚。ただひとつ確かなこと、ここへ来るまでの旅のなかで、いつも感じていたのは、急がなくてはならないというあせりだった。タレゴへ入らなければ、という強迫観念だった。
 ひと際強い揺れで、背中が床に叩きつけられた。急に揺れて床にひっくりかえると、ラケルは御者を罵ってやろうと立ち上がろうとした。急停止のたびに、そんな揺れは何度もあったが、今度ばかりはちょっとひどい。しかし、手足から力が抜け出てしまったかのように、立ち上がることができない。悪寒が、痙攣のようなどうにもならない震えとなって身体を揺さぶり、自分がどうにも弱くなったように感じた。
 馬車は揺れなくなってきたが、今度は車輪と石畳の道がたてるガタガタする音に変わった。目的地に着いたのだろう。馬車の床に横たわりながら、このとき、のどに嘔吐した後のような臭気が上ってきたが、これはなぜなのかラケルにはわからなかった。
 この数年、吐いた覚えはないのに。

 簒奪者グラコ

 彼女が部屋に入ってくるのを見ると、彼は明らかに安堵の表情を見せた。女性審議官が毒殺されてからずいぶん経つが、若き頃の恐怖心にあおられて、イメージとしてのあの女はもっと恐ろしい女だと思っていた。しかし、兵士が引っ張ってきたこの女は、未成年といってもいい、思い描いていたイメージとは少しも似ていなかった。それどころか、自分で歩く力もなさそうだ。おおかた兵士がなぐさみものにでもしたのだろうが。
 部屋の真ん中に彼女を座らせ、足を縛った。グラコが近づいた。
「なぜ、こんなになってるのかね?」と担当の士官にきいた。
「わかりません、閣下。馬車に乗せたときは普通でした。着いた時にはこうなっていました。護送中は揺れが……、道路はもう以前のように……」
「下がれ」グラコは手で兵士を追い払った。今直面している問題と関係ないことは、彼をいらだたせた。
「そして、大臣にわしが待っていると伝えよ」
 兵士が部屋を出て行くと、グラコはもっと近くで女を見た。
「徒歩人ラケル。それがおまえの名前なんだな」
 名前を聞くと、彼女は反応した。少し回復したようだ。
「パン屋のラケルだったかも。兵士が姓名ともに聞きたがったのよ。わたしの名前はただのラケル」
 グラコは彼女の皮肉を無視した。顎先をつまんで頭を回し、顔の両側をよく見た。
「おまえは審議官ではないな。顔が若すぎる。審議官は少なくとも倍は年を取っている」
「じゃあもう行っても……」
「だめだ」異議は認めないと言うようにぴしゃりと言った。
「おまえ一人がいるだけで暴動が起きかねん」
 その時、ギドがゆっくり歩きながら部屋に入ってきた。二人の近くへ来ると、立ち止まり、軽く頭を下げて挨拶をしてから、女の方へ向き合った。ラケルは無関心を装って彼が部屋へ入ってくるのを見ていたが、ギドの肩にもうひとつの首がのっているのを見て仰天した。グラコはそれとわからないくらい微かに笑った。
「閣下?」とギドが尋ねる。ふたつの顔は見分けがつかない。エンソはいつものとおり深く眠っている。
「彼女ではない。探している女は、少なくとも三十才にはなっているはずだ。他の二人の女の顔はわかっているのか?」
「一人は栗色の髪、よく日に焼けた顔、頬にナイフの切り傷があります。もう一人は病み上がりだとしかわかっていません」
「どこにいるのかわかっているのか?」
「今のところはまだ。ですが、まもなく知らせが届くことでしょう」
「そう願いたいものだ」グラコはそう言って、虜囚と向かい合った。いまや、三人の女のうち最初の一人を捕まえ、彼の恐れは消えつつあった。川は通常の流れに戻った。ふたたび、事態の主導権は彼が握り、この女が起こす避けられないことというものを、緊張しながらも楽しみに待ってみようという気になってきた。
「もしおまえではないにしても、他の二人のうちのどちらかだろう。いまに会えるだろうが、一緒になったところで、おまえらの一人か、あるいは、三人とも死ぬことになる」

 居候エンソ

 唾はギドの肘にべったりとつき、簡易ベッドから下がっている腕を伝って落ちた。
「ハッ! あたしはこんなに近くにいるよ、化物! 今度は目に入れてやるからね!」女は巻き髪を振り乱し、腰をぐるぐると回した。
「さっさとこの牢を開けてくれりゃ、勘弁してやらんでもないけどね!」
「ぼくにはできないって言っただろう」エンソが言った。「ご覧のとおり、ぼくには足がない。もちろん、それでいいんだけどね。脚を掻くことはできないけど痒くなったりはしないし、散歩はできないけど、歩き過ぎて足が痛くなることはない。靴やウオノメの心配もない」 
「手ひどく転ぶこともないってことだね、化物さん」
 エンソは舌を鳴らしたが、これは肩をすくめる代わりらしい。
「そんなところだ」
「で、酔っ払いのあたしに何の話だい?」
「《消化不良を起こしたり泥酔したりするものは、食べるということ、飲むということがわかっていない》」エンソが引用した。「ぼくはたくさん飲むのは好きじゃない。神経が死んでしまう。いずれにしても、ちょっと今は二日酔いでね。ただひとつ、ぼくが免れないのは頭痛だから」
「で、頭痛といえば……」
 ぼくの記憶が正しければ――記憶力はいい方だから間違っていないはずだが――この女の名は放蕩者ラウラ。彼女はそんなに強く頭を抱えるから痛くなるんじゃないかと思ったくらいに激しく頭を抱えた。
 またことわざの引用にからめて、そのことを言おうと思ったとき、変身が始まった。
 それは、まず女の顔から始まった。頬骨が頬の中に沈み、下顎がもっと小さくなり、肌に張りと艶が出てきた。額にあった皺も消えていく。それは、骨や皮膚などすべてがパテのように柔らかくなって、見えない手によって形成されていくようだった。その後の変化はもっと不思議で、魔術的な染め粉が駆使されたといえようか。虹彩は青空のような輝きを失い、栗色に濁り、黒になった。髪の色も暗くなったかと思えば、明るい栗色を経由して、炭のような黒髪に変化した。
 変身が進むにつれて、女は頭を抱えるのをやめ、愕然として、独房から外してきた鏡の中に見入っていた。エンソは最後の変化を鏡の中で見守った。
 そしてやっと、鏡の中の変化が落ち着き始めたとき、この女は徒歩人ラケルだと知った。
 女は夢から醒めたばかりのように少し後ずさり、自分自身の顔に驚きを隠せないでいた。
「《充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない》」
 ラケルはエンソがいる方に目を向けた。彼が自分を見ているのに驚いて、うめき声がもれる。ギドは牢の近くに置いた簡易ベッドで眠っている。ここは警察の庁舎、簒奪者グラコの本拠地だ。
 旅行中は数多くの突然変異体を見てきたが、ラケルはこの双頭の男には慣れることはなかった。そのうちのひとつが彼女をじっと見つめて、話しかけているとすればなおさらだ。しかも、そのほかの身体はぐっすり眠っている。
「え? いまなんて言ったの?」ラケルは怖かったが、聞かずにはいられなかった。
「ただの引用ですよ。今見たのは、魔法のように見えるけど、実際はそうじゃないってこと。ナノボットだね。それについて読んだことはあったけど、いままでは失われたテクノロジーだと思っていたよ。まだ誰かがその秘密を知っているようだね」
「ナノボット?」その言葉はラケルの心にいいようのない反響を呼び覚ました。
「そう。今日までそれが作動しているのは見たこともなかった。これが二回目。最初のは三時間ぐらい前、きみが眠っているときだった」エンソは含み笑いをした。「グラコとギドは他の二人を探しているが、無駄だね。二人ともここにいるんだから」エンソは舌を鳴らして、じっとラケルを見つめた。「みんな一緒にね」
 そうだったのか。ラケルは思った。それが真実に違いない。それなら、今彼女に起こっている多くのことに説明がつく。頭の中に突然よみがえってくる覚えのない記憶や感覚。なぜかわかってしまうこと、知っていることなども、このせいだったのだ。
「幻を見ているようだった」ラケルが話しかけているのは彼だったのか、あるいは誰にも話しかけていなかったのか。
「すべてがガスの渦に巻き込まれて雲の中にいるようで、その……変身というか、転移の様子がはっきりと見えなかった。それから、すぐにすべてが靄となって消えてしまって……、目が覚めたの」ラケルはちょうど今起きたかのように頭を振った。
「でも、夢を覚えているようなものだけど、起こったことは全部覚えている。ラウラのことや……」ラケルは黒い目で彼を見たが、エンソはその目のなかにラウラを感じられた。唾を吐いたり、罵ったりしているが、それは彼を恨んでいるからではなく、ゲームを楽しんでいるかのようだった。
 よどんだ水のような濃密な静寂が独房に満ちた。眠っているギドの身体をエンソが起こすのではないかとラケルは思っている。エンソはそう思った。ギドに知らせるために! 叫ぶのか? 噛みつくのか? だから、あえてエンソは彼女を見ているだけにした。
 ついに、彼女から沈黙を脱した。
「彼に何も言わないの?」
「言う? 誰に?」エンソは回せるような首がないので、目だけを芝居がかった調子でぐるぐる回して横を向いた。
「ギド……に」
 エンソはにっこりと笑った。
「いいや。どうして話さなきゃならない? 兄とぼくはこんなにもくっついてるのに。ハハハ、でも、ぼくは彼がして欲しいことは全然しないんだ。そして彼も、ぼくがして欲しいことはしてくれない。彼はグラコのために働いている。ぼくは違う。そしてそれはぼくにとって楽しいことじゃないのは保証できる。彼のために働いてくれとは言われなかったし」
 頭だけを相手にして陰謀を企ててるなんて、とラケルは自分を疑った。でも、いつかはもうひとつの頭も目覚めて、この非現実的な会話も終わってしまう。
「でも、……彼は……わかってしまうことはないの?」
「《真の友情は血縁なき親族関係》ってね。ぼくたちは血を分け合ってはいるけど、心は別物だ。そしてぼくが知る限り、ギドはテレパスじゃない。つまり、頭はたいして使ってないってことだね」
「あなたが知らせなかったってわかっても、あなたはなにもされない?」
「兄はぼくの言うことは何も聞かない。それに、悪いのはいつもぼくなんだ」
 ラケルは、彼のその断定的なことばの裏にはもっと何かがあると思って、彼がまた口を開くのを待った。
「母はぼくたちが、兄とぼくが、生まれたときに死んだ。だれもかれもが、母の死んだのはぼく、居候のエンソのせいだといった。兄じゃなく、ふたりのせいでもなく、ましてや、偶然や、ろくでもないDNAの螺旋のせいでもない。ぼくだ。ぼくの存在自体が罪だった。今度はぼくの沈黙が悪いってことになるんだ」エンソは舌を鳴らして、肩をすくめる代わりにした。
「でも、なにができる? ぼくを閉じ込めるか?」
 ラケルは微笑んだ。そして、一つの頭に向かって微笑みかけてるんだと気がつき、ついには彼を一つの人格として受容れたんだと気がついた。――ほんと、おしゃべりよね、この人――そして、彼女の微笑みはもっと広がった。
 エンソは彼女のそのしぐさを理解し、ゆっくりとまばたきをした。同意と理解のしるしだ。
「あなたはお兄さんとはあまり話さないのね」と話しかけるラケルの気持ちは、明らかに軽くなっている。突然変異体と話をしているという衝撃が、彼女に起きた出来事、彼女自身の中に潜んでいるものを忘れさせているようだった。
「そうだね。でも、それは彼のせいじゃない。ぼくたちは血を分け合ってるだろ。心臓はふたり分の血を流してるわけだ。だから、彼が起きてるときは、僕には起きていられるだけの血がまわって来ないんだ。きみだって食事のすぐ後は眠くなるだろ、それは血が消化に振り向けられてるからだよ」
 ここで、ひとつ舌が鳴る。
「だから、彼が昼を生きて、ぼくが夜を生きる。悪くないよ、本が読める静けさが好きだからね。ぼくたちのベッドのそばには、まぶたの動きに反応するスクリーンがあってね、これで、無尽蔵の図書館にアクセスできる。今夜のことは、――と、この心許ない独房を見回す――例外で、グラコのために兄が自己献身をしたってこと。もちろん、ぼくに断りもせず」
「グラコはあなたと折り合いがよくないみたいね」
「《貪欲と傲慢は権力者の主な悪徳である》」
 エンソはいつも引用をするときのように、目を閉じた。
「簒奪者グラコは愚か者だ。権力のための権力を捜し求めている。その権力で何をしたらいいかをわかっていない。審議官の椅子についてからは、そこらじゅうで陰謀はないかと探している。どう使うかではなく、いかに維持するかとしか考えていない。無能でなければ、ぼくは独裁者には反対はしないんだが」
「そんなに暴虐で愚かなら、どうしてまだ権力があるの? どうしてそこまで行けたの?」
「タレゴの住民全員のせいだ。いま苦しんで預言が実現するのを待っている人々が、三十年前、警察にもっともっと権力を与え、グラコの野心を育ててしまった張本人だ」
 ラケルはその状況を想像しようとしたが、めまいの感覚に胸が苦しくなった。こんなこと、彼女の手には余る。そもそも、彼女って誰?
 エンソは彼女の気持ちを誤解した。
「でも、こんなことはもうすぐ終わる。きみと一緒に終わらせる。あるいは、きみがいなくてもぼくが終わらせてやる。良心の玉座は彼には使えない。権力だけでは、所詮、長続きはしない」
「でも、なぜその玉座を使ってないの?」
「ハハ! 彼だってどんなに使いたかったか!」彼の顔の笑みは現れたときと同様、さっと消え去った。
「きみの後ろを見てみろよ、その隣の独房を」
 ラケルは振り返って、隣の牢との間の鉄格子に相対した。最初はなにもないと思ったが、よく見ると影のような物がうっすらと見えた。彼女は近づいて見た。
 それは、寒さから身を守るためにうずくまっている人の固まりだった。この暗闇では定かではないが、四、五人の男のようだ。たったひとり起きていて、にたにたした顔を彼女の方に向けた。呆然とした唇の隅からよだれがたれている。
「精神薄弱者。頭がまっさらになっている。ぼくの優しい兄の人体実験となった対価だ。グラコは彼らを玉座の神経マップに調整するように脅したんだ。でも、ごらんのとおり、成功はしなかった。人の神経デザインは指紋のようなものでね、偽造はできないんだ」
 エンソは目を半分閉じて、微笑んだ。
「でも、見たところ、偽装はできるようだね」
 ラケルは視線をはずし、牢の正面に戻った。その時、ギドが寝返りをうち、エンソがベッドの向こう側を向いてしまったので、ラケルからは見えなくなった。
「《ある朝、何とも落ち着かない夢のあと目覚めると、グレゴール・ザムザは自分がばかでかい昆虫に変身しているのに気がついた》」とエンソは大きなあくびをしながら言った。
「ギドが目覚めようとしている。朝が近い。朝になれば、すべてが解決するよ」
 そして、彼は眠りの中に落ちていった。
 エンソがいびきをかきはじめた頃、ラケルは少し笑みを浮かべながら、独房の居心地の悪いベッドに横たわった。ほんの少しでも眠ろうとしながら、エンソは彼女についての少しばかりの優位を持っていることを思い出していた。少なくとも、明日は誰が先に立っているかは知っていた。

 簒奪者グラコ Ⅱ

「彼女が三人だって?」グラコはそう叫び、大笑いの衝動に耐えられなかった。笑いを何とか抑えることができても、怒りは少しも収まらなかった。
「それはおまえの愚かな兄弟が言っていることだろう。《彼女が三人の女だ》それはわしが大臣から聞きたい言葉じゃない」
「ですが、それが真実なのです、閣下。エンソが言ったのではありません。今朝、この目で、牢に別の人物が入っているのを見たのです。でなければ、囚人が入れ替わっているのを、どう説明できるでしょう。一人が入って、一人が出たのですか? ありえません」
 グラコは火花が出そうな視線を向けたが、何も言わなかった。鉄格子に向かって、アナという名前の女を見た。独房の中のベッドの上で、はげしい痙攣をしながら身をよじっている。扉は開いていた。ギドがかんぬきを外してあったのだ。グラコは走るように牢の中に入っていき、アナの腕をつかんだ。
「どうしてこの牢に入ったのだ、女?」と彼女を揺さぶりながら尋問した。
「黒い髪の別の女はどこだ?」
 病み上がりのアナは答えなかった。ほとんど目も開けずにグラコの方をチラッと見ると、横を向いて嘔吐し、グラコのブーツの上に撒き散らした。グラコは怒って手の甲で殴り、彼女は壁に叩きつけられた。女は反応しなかった。諦めたグラコは、扉を閉めようともせずに牢から出た。
「ご覧下さい、閣下!」ギドが叫んだ。
 グラコは見た。そして、それを目撃した。
 女の変身がはじまっていた。髪、容貌、そして、身長すらも変わり、石造りのかまどからの熱気で揺らいでいるようだ。ベッドの中にいるのは、すでにアナという女ではなく、ラケルという女でもなく、戸惑った表情で瞬きしている第三の女になっていた。彼女はベッドの上で起き上がった。
「おまえはだれだ」とグラコが聞いた。
「あんたがパーティーに呼びたいと思うような女よ」と放蕩者ラウラが言った。「でも、こんなような所は願い下げだわ」
 グラコは、女も、その答えも無視して、ギドを見た。
「またおまえが正しかったようだな、ギド、わしの大臣よ。三人の女はここにいたんだ。だが、どうしてこんなことが起こるんだ。魔術か?」
「いえ、違うでしょう、閣下。わたしにもわからないある種の科学技術かと思われます。北方の都市のいずれかに古の科学の牙城があるという噂があります。おそらく、この女はそこから参ったのではないかと」
「とにかく、おまえは間違ってはいなかった」
「玉座を用意いたしましょうか、閣下?」ギドは、グラコが表すことができた精一杯の謝罪の言葉を、丁重に受け流した。
「もちろんだ。ひとりずつ試してやる。《三人の女がやってきて、一人が残るだろう》か。さて、残るのは誰かみてやろうじゃないか」
「かしこまりました、閣下」
 ギドは独房の扉の外へ消えていった。グラコはしばらくギドが出て行った扉を見ていたが、右のブーツに唾が飛んできて、注意を引いた。
「ひとりひとり試すこたないよ、審議官閣下。あたしがその女さ」ラウラが胸を揉みしだきながら言った。「大いに疑わしいな」とグラコが言った。「だが、試して失うものがあるわけじゃない。おまえのいる脳の部分は焼け焦げてしまうがいい」
 それからすぐに、玉座についている車輪の軋みが聞こえ、待ち望んだ静けさが訪れた。ギドが精神増幅器が乗った荷台を押している兵士を従えて入ってきた。牢の近くに停めたが、兵士は女をじっと見ている。それというのも、ラウラは卑猥なしぐさを兵士に見せていたのだ。
 グラコは手ではらって、大臣に兵士を外に出させた。何が起こるかわからないのだ。また、審議官を殺してしまうことになるかも知れず、タレゴの人々に悪意のある噂を流しそうな目撃者は作りたくなかった。後でこのことの適切な解釈を広めるのはギドの仕事だ。
 ギドがスイッチを入れると、ブーンという音が独房を満たした。そして、縁なし帽の形をした神経スキャナーを手に取って、牢の中に入った。ラウラの頭にかぶせようとしたところ、彼女はその手をかわして彼の胸に蹴りを入れた。ギドは檻に叩きつけられ、肺から空気が抜けた。
 グラコが牢に入り、ラウラの背中を押さえつけた。
「さあ、やれ、ギド。その帽子をかぶせて、こんなことは終わらせろ。三人の女のうち、誰が審議官なのかみてやる」
 ギドは彼に答えて起き上がると、ラウラに近づいた。ラウラは大臣の顔に唾を吐いたが、ギドは拭いもせずに、無益に頭を振るラウラにスキャナーをかぶせた。そして、離れて待った。
 始めはなにも起こらなかった。グラコが機械のスイッチが入っているか確かめろと言おうとしたとき、変身が始まった。ラウラという名の女は消え、容貌が柔らかく変わっていった。髪の色が暗くなり、ラケルの漆黒の髪に変化した。
 ラケルは怒りに燃えた黒い目で彼らをにらんだが、それも次の変身が起こるまでの一瞬のことだった。彼女の髪も、顔も、肌もすべてが退色して、透き通った白さになり、いまスキャナーの下から彼らを見ているのは、病み上がりのアナだった。
 グラコは何が起こっているのか、ギドが知っていると期待して彼のほうを見たが、大臣は女の目から視線を離せないでいた。グラコが女の方に目を戻すと、またもや、変身が始まっていた。彼女はラウラになっていた。しかし、全部ではない。容貌はアナの白い肌の痕跡を残していたし、髪はラケルのさらっとした黒い髪になっていた。
 変身は断続的になってきて、顔立ちは混ざり合って区別できなくなり、目に見えない手が、人間パズルで気まぐれに遊んでいるようだった。
 その変化には終わりがないように見えたが、突然に変化が止まった。目の前にいる女は、もうラケルでも、ラウラでも、アナでもなかった。
 彼女は審議官だった。

 審議官

 冷静さがにじみ出ている相貌が物語っていた。驚いている者の顔、わけのわからない状況、失った記憶に圧倒されている顔ではなかった。ふたたび、彼女はひとつになったのだ。
 久しく失われていたが、決してその形を忘れていなかった長い肘まである手袋のように、玉座にぴったりと馴染んだ身体が物語っていた。
 良心の玉座を通じ、この国の一人ひとりの心に語りかける精神が物語っていた。
《私は戻ってきました。ついに、たどりつきました。すべては元通りになるでしょう。もう、蹂躙や不正は起こりません。今まで長い間、お待たせしたことに謝罪と感謝を申し上げます》
「何も元には戻らないぞ、雌犬め!」グラコが叫んだ。
 彼はこの瞬間を三十年も待っていたのだ。細身の剣を抜くと、彼女に突き進んだ。
《止まりなさい、簒奪者グラコ!》彼女はすべての人の精神に向けて命令した。
 グラコは立ち止まり、震えだした。重い剣は、力の抜けた手から落ちた。
《おまえの手によって、あまりに大勢の人の血が流されました!》
 グラコは泣き崩れ、膝を突いた。
《おまえの血によって贖いなさい!》
 グラコは手で顔を覆い、叫び始めた。審議官に導かれ、何百という告発者のイメージがグラコを責めたてた。嘆き苦しんだ父親、卑しめられた母親、剥奪された息子たち、怒り、痛み、絶え間ない正義を求める叫びが、彼を打ち据えた。猛烈な嵐が無秩序な旋風となって彼を翻弄し、絞り上げ、人々の叫びが彼の限界を超えると、グラコは自分自身の人格の意識を失った。そうなってはじめて、人々の叫びは調子を失い、彼の精神は限界を超えた残響となって悲鳴をあげた。
 簒奪者グラコは独房から、そして、タレゴの街から走り去り、二度とその姿を見るものはいなかった。

 大臣エンソ

 月のない漆黒の夜だった。開け放った窓から、コオロギが星の瞬くリズムを奏でる音が浸み込んでくる。エンソは休息と、読書はできなくとも暗闇の静けさを楽しんでいた。
「では、みんなそこにいたんだ。水のごとく明らかに」
「ほんとにそう思うの?」彼女が楽しそうに言った。
 エンソは舌を鳴らした。
「《明確に見るためには、見る方向を変えるべし》他の二つの人格を除外できないことを、彼らは理解できなかった。三人のうちの一人ではなく、三人が融合して一人になるんだ」
「そして、あなたはそれがわかっていた。そうでしょ?」
「すっかりというわけじゃないがね」エンソは笑った。「誰もほめちゃくれないが」
 彼女は笑ったが、ちょっと奇妙な笑いだった。耳というより、胸の方で聞こえた。エンソは笑顔を返した。彼にしては珍しい。
「ここで起こったことを、ぼくがすべて知っていたとしても、でも、どうしてもわからないことがある。誰かに教えてもらわないと」
 彼女は微笑んだが、それで暗い部屋が明るくなった。
「知るべきことはそんなに多くないわ、エンソ。三人の女なんていなかったのよ。守衛の精神探査をだますために、自分の精神を三つに分けただけ。ラケルはその若さで最も注意を引かないだろうということで、旅向きだった。でも、北の門でスキャナーを使われると、行ってもいない偽の旅の記憶を持っているだけの、他の二人の人格が現れ始めてしまった。最後には一人になることにはなっていたんだけど、玉座につながれたせいで、一気に融合が進んでしまった」
「預言を広めたのは、先代の審議官だったんですね」
「ある意味ではそうとも言えるけど、ちょっと違うわね。先代の審議官は、死んでいる間にタレゴで感受性の強い女性に触れることができて、何かが起こるという予感のようなものを植えつけたの。それは審議官自身が考えたものだったけど、それに形を与えて、預言にまで作り上げたのは、その考え方がどこから来ているのも知らなかったその人達だった」
「《三人の女来たりて、一人が残る。玉座には審議官が戻り、すべての民には調和が戻る》」エンソは引用して、考え込んだ。ある疑問が彼を悩ませていたが、それを聞いてもいいものかどうかわからなかった。だが、ついに決心して聞いてみることにした。
「でも、どうしてそんなに……」――どんな言葉を使ったらいいのか――「かたよった人格を使ってタレゴに現れたりしたんですか? あなたがいない間に、あなたの身体でやりたい放題をしたものもいたようですよ」
 彼女は笑って、心に残っていた最後の疑念も払拭した。
「あれは全部、私だったのよ。私は人格を作ってはいない。そんなことできないし。私の人生で最も強く出た瞬間を分離しただけ。楽しかった子供時代や、反抗的で、いつもいらいらしていた思春期や、死の苦しみなどの感情を」
「あなたの死ですか?」
「そう、私の断末魔。一部は彼女のものでもあるんだけど、審議官が私に接触してきたときは、グラコに毒を盛られてほとんど死にそうになっていてね。玉座を使わないで私と十全のコンタクトを取るには、彼女がもてるすべてを伝えて、私との完全な共感を無理にも保つ必要があった。彼女の知識、誰にやられたのか、無事にタレゴに入るための計画……、今わの際の苦しみもそのなかの一つだった」彼女は悲しそうに目を下に向け、雲が星を隠した。
「記憶が正しければ、私は三日間、高熱で臥せっていたわ」彼女は笑って、雲が晴れた。
「三日間だけ?」
「そう。でも、高熱で混沌とした記憶では、ナノボットの同化期間と一緒になって」
「詳しく教えてください。ナノボットの存在は知ってましたけど、その詳細は知らないんです」
 彼女はつらい記憶を思い出して、溜息をついた。
「身体は危害のある侵入者ではないことになかなか気づかなくて、まずは病気を引き起こすものとして反応するのね。数ヶ月は断続的な高熱に耐えなければならなかった。体の防衛機構を壊さない程度に鎮静させる薬を用意して、害はないことを納得させなくちゃならなかったの」
「で、そのナノボットは……まだ体の中にあるんですか?」
「いいえ、そうは思わない。私が一つになったことで目的は達成し、不活性化したでしょう。最後にトイレに行ったときに出ちゃったと思う」
 エンソは笑った。その冗談にではなく、彼女のいままでの生き方をなんでもないと思おうとするその心意気に対して。
「ひどかったでしょうね、その経過の間は……」
「かなりね。でも、私を気遣ってくれたひとがいた。私を審議官のもとにおくってくれたひと、私の使命をほとんど知らずに手伝ってくれたひと、あなたのようなひと」
 エンソはまた微笑んだが、今度は悲しそうではなかった。
「《必要なのは友人の助けではなく、いつでも助けてくれるという信頼感である》」一転、真面目な顔でエンソが言った。
「ぼくはいつでも、あなたのお役に立ちたいと思っています。そして、いつかぼくの兄はもともとは悪い人じゃないとわかってほしい。ただ、少しわからずやだってことをね」
「わかってるわ。でも、それは彼の負うべきこと。ただ、気懸かりなのは、あなたは本来悩まなくてもいいことで、苦しんでしまうだろうってこと」
「ぼくのカルマですよ」とエンソは言って、舌を鳴らした。
 彼女は眠っているギドの身体に触れないようにしながら、エンソの頬に唇をつけて、独房を出て行った。

No hay comentarios: